恋綻頃

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  2−8話  

ボールが頭部に直撃した沙也は、痛みを何とかこらえていた。試合中のパスミスによってコートの外に出たボールが、彼女に運悪く当たってしまったのである。普通なら避けることができたのかもしれないが、静流に気を取られていた彼女は気づくのが遅れてしまった。
痛みに生理的な涙がじわりと浮かぶ。さらに悪いことに、ボールが当たってよろけた拍子に足首までひねってしまったらしい。最悪だ。これでもう試合には出ることができない、と彼女は覚悟した。
周りが心配して声をかけてくれる。彼女は大丈夫、と言おうとした。たいしたことはないのだから、試合をそのまま続けて欲しかったのだ。彼女が顔を上げて笑おうとしたそのとき、見慣れた顔が飛び込んできた。

「大丈夫ですか?」
「あっ当たり前よ。なんともないわ」

静流がいつの間にか、沙也の目の前にひざをついていた。表情をうかがうように顔を覗き込まれて、彼女はついつんとした態度をとって視線をそらした。そして視線は自然と、ひねってわずかな痛みがある足首へと注がれる。その所作を彼は見逃さず、ちらりと目を向けると彼女を見透かすように視線を戻した。その空気が耐えられなくて、彼女はなお言葉をつむいだ。

「そりゃあ多少は痛かったけど、騒ぐほどのものじゃ――」
「・・・黙ってなさい」

静流が低い声でそうつぶやいたかと思うと――沙也は体が宙に浮く感覚を味わった。
いったい何ごと?
わけがわからず目をぱちくりさせる。だが、瞬間的にその場がざわつくのはわかった。そして、次に感じたのは人のぬくもり。彼女に触れる感触、息遣い。そして、目の前にある静流の顔。
なぜか静流に抱き上げられている。軽々と、余裕さえ感じられるように。これがいわゆるお姫様抱っこをされているのだと気づき、彼女の顔は見る見るうちに赤くなる。この格好は公衆の面前でかなり恥ずかしい。

「ちょっと静流!何するの、降ろしてよ!!」
「却下します。あ、武山さん。沙也さんを保健室に連れて行きますので代わりに得点係をお願いします」
「あ、はい。わかりました。沙也をよろしくお願いします」
「ええ。それではどうぞ、試合は続けてください」

彼は微笑みを向けるとそのままの格好で歩き出した。沙也は開いた口が塞がらない。なんてことだろう、何が起こってるんだろう。彼はさも当然だとでもいうように、周りの目を気にすることなく突き進んでいる。彼女はさすがに彼に抱かれている格好が恥ずかしくてたまらず、抵抗の意思を示した。
人にじろじろ見て喜ぶなんて趣味は私にはないんだから!

「もう、やめてよ。私は大丈夫だってば!だから降ろして!!」
「何が大丈夫なものですか。強がったって無駄ですよ」
「ひぃやあっ!」
「なるほど、ここですか」
「ああああんたねえ、いきなりなにするのよ!」

沙也のひねった足首の箇所をどんぴしゃで指摘され、かつ触れられて痛みが走り、彼女は怒鳴らずにはいられなかった。静流には彼女の強がりも見通されてしまったらしい。騒ぐ彼女を彼はぎろりとにらみつけ、再び問題の箇所に触れた。

「ああ、もううるさいですねえ。けが人はおとなしくしてなさい」
「・・・っ。ふぅ・・・この、バカっ。鬼畜!」
「なんとでも」

先ほどよりも沙也を気遣ったからか、やさしい触れ方ではあったが、それでも刺激は走る。思わず彼女はぎゅっと静流のTシャツを掴み、息を漏らす。抵抗する気力も失せ、体を寄りかからせた。彼はそんな沙也を見てわずかに眉をピクリと動かし、ちっと舌打ちした。心なしか歩くペースが早くなっているようだ。
わずかな彼の変化に気がついて、視線を彼に向けた。

「・・・なによ?」
「・・・・・・別に。何も知らないあなたと、自分自身が腹立たしいだけですよ」
「?」
「わからないならいいんです」

静流はそれ以上何もいう気がないらしい。すたすたと先を急いでいて、沙也も問いただすことはできなかった。そして保健室の前までたどり着いたのだが、そこには誰もおらず人気はない。よく考えてみれば今は球技大会中なのだから、すぐに対応できるように保健室ではなく本部に養護教諭はいるはずだった。

「ねえ、静流。今日はここには誰もいないんじゃ・・・」
「そうですね、知ってますよ。それくらい」
「え?じゃあなんでここに・・・」

静流の意図がよくわからない。釈然としないものを感じながら、沙也は彼に指示されたとおりに椅子に腰掛ける。彼は勝手に保健室を探りはじめ、アイシングするための氷を持ち出してきた。バケツに水と氷を入れて、彼女の前に置いた。ひねった足を入れろということだろう。
彼女が靴下とシューズを脱ごうとかがんだとき、彼に止められた。怪訝な顔をする彼女を尻目に、彼はさっさと靴下まで脱がして素足に彼の手が触れた。そのかいがいしいまでの行為に驚いて口もきけない。すぐに彼女の足は氷水で浸されたバケツに入れられ、冷たさが肌を刺激した。今は夏だから冷たいといっても心地よいものだった。痛みも感じなくなっている。
彼女は世話をやく静流の様子をじっと見つめた。抱き方は恥ずかしかったし言動もやさしくはないけれど、彼なりに心配してくれたのだろう。それは素直にうれしいと思えた。

「沙也さん」

静流の顔を包み込まれ、顔は上に向けさせられた。自然と視線が彼と絡まり、そらすことができなくなる。沙也はわけもなくどぎまぎした。

「な・・・なによ?」
「・・・いえ。顔に当たらなくてよかったなあと思いまして」
「え?」
「だって、そんなことになったら今よりももっとブスになっちゃいますからね」
「なによそれ!余計なお世話よ!!」

ちょっと真剣な空気になっていたかと思えば、こうしてすぐにいやみを言ってくる。憤慨する沙也に静流はくすくすと笑っている。絶対に彼女の反応を見て楽しんでいるのだ。それでもバカにした笑みではなくて、最近見せるようになった親しげな笑みであった。そこには皮肉な影は見当たらず、穏やかな色がこもっている。
沙也は静流のこの表情に弱い。今までとちがう表情に戸惑ってしまうし、うまく反応できなくなってしまうのだ。そしてそのときは「義兄妹」という関係や今まで喧嘩していたことなど忘れてしまいそうになる。
ずっと不機嫌だったくせに、亜澄先輩と仲良くしてるくせに、こんな風にやさしくしないでよ。
ふとそんな考えを抱いている自分に彼女は驚いた。

穏やかな時間が流れていた。静流も不機嫌さを見せてもいないし、おもしろげでもある。沙也は静流と亜澄のことを思い浮かべながら、彼に尋ねてみたいことがあった。今ならちゃんと聞いてくれそうな気がしたから。彼女は隣に腰掛けた彼に、声をかけた。

「ねえ・・・静流」
「はい、なんでしょう」
「・・・・・・亜澄先輩のことが好きになったのなら、そのときはちゃんと言ってよねっ」
「・・・・・・は・・・・・・?どういう意味ですか?」
「どうもこうも、そのままの意味よ。私、あんたのことにうるさく口を出さないことにしたの。だから、静流がしたいようにしていいのよ」

沙也は静流の目を見ないまま、言った。沙也なりに今までの二人の様子を考えて、彼が亜澄のことを好きになるのならそれでかまわないと思うことにした。静流は彼女を好きだと言ったこともあったけれど、亜澄がそばにいるのならいつまで続くかもわからない。そもそも彼が沙也を好きだなんて、おかしかったのだ。
私は静流が好きなわけじゃない。だから全くかまわないはずでしょ?

静流は沙也の言葉になんと返したらよいか、図りかねているようだった。しばし二人の間に沈黙が流れる。彼から怒るなり、いやみを言われるなり、なんらかの反応を予想していた沙也にとってこの沈黙は重たかった。彼女はこの静けさに耐え切れなくなって、ちらりと彼を見やる。
静流は沙也を見据えていた。強いまなざしでそらすことができないほどの視線。その中に苛立ちと怒りと・・・どこか傷ついた色も見え隠れしている。彼にはまったく似つかわしくなく、そんな一面が見えるとは思ってもいなかった。
彼女には懸命に考えて出した答えだったが、これでよかったのだろうかという後悔が頭によぎった。こんな静流を私は知らない。

「・・・静流?」
「・・・・・・あなたの言いたいことはよくわかりました」

低く、感情を抑えたような声。うつむいて前髪で顔が隠れているため、表情は沙也には読めない。

「結局は、僕があなたを好きでいることが迷惑だ。そういうことでしょう?」

強い言葉の響きに沙也は怯んだ。そんな明確な意図を持って発言をしたわけではなかった。ただ、これ以上静流と亜澄のことで煩わしく考えたくなかったから。だから、自分自身にも言い聞かせるように彼に言ってしまったのだ。

「・・・そういうわけじゃ」
「ないっていうんですか?ふざけないでください!」

怒鳴るような声に思わずびくりとする。静流がこうやって感情を発露することはめったにない。彼は、沙也をにらみつけるようにきつく見据えて、距離をつめてきた。

「・・・ばからしいな。こんなことになるなら、いっそ――」
「――都築くん?」

緊張感漂う場に、保健室のドアを開ける音とともに女子生徒の声が響いた。ぱっと顔を向けるとそこには亜澄がいた。静流も彼女の姿を確認すると、沙也から距離を保ち立ち上がった。

「どうしました?」
「委員会のことで話があるのよ。沙也さんが怪我をしたって聞いたから、ここかと思って探してたの」
「そうでしたか。すみません、ご迷惑おかけしました」

静流は普段どおりの穏やかさに切り替えて、沙也から離れていく。亜澄は保健室の入り口で彼を待っている。一歩一歩亜澄のもとへ歩んでいく静流をみて、彼女は胸が詰まるような思いになった。
このままでいいのだろうか。私は後悔するんじゃないのだろうか。そんな予感がして・・・

「静流!」

何も考えずに、感情のままに声を出して彼を引き止めていた。これからどうしようか、とか引き止めて何を言おうか、まったく考えもせずに。
静流は足をとめて、沙也を振り向いていた。

「なんですか?」

なんだろう。わからない。静流が怪訝な顔をして沙也を見つめている。突然引き止めてしまったのだから、当然だろう。
何か言わなくちゃ。でも、何を言えばいいのか自分でもわからない。ただ行って欲しくないと思ってしまったから、一瞬でも。・・・行って欲しくない?静流に?どうして――。
混乱する頭の中を整理できないまま、彼女は当たり障りのない言葉をつむいでいた。

「・・・・・・世話してくれてありがとう。それだけ言いたかったから」
「別に、それくらいかまいませんよ。・・・すみません、行きましょうか亜澄さん」
「ええ。お大事にね、沙也さん」

亜澄と静流はそれぞれ言い残して、保健室からいなくなった。沙也は二人の後姿を見ながら、なんだか涙が出そうになった。
バカみたい。自分で静流を拒絶しておいて、彼がいざ離れて行きそうになると傷つくだなんて。そもそも、傷つくという言葉が出てくるのもおかしいのだ。矛盾している。
沙也は友人が保健室にやってくるまで、ただじっと考え込んでいた。






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