Cool Sweet Honey!

太壱編―11―

あれから幾度となくキスされたことをひかるに伝えようとしたかわからない。伝える機会はたくさんあったし、言わなければならないとずっと思っていた。けれどもいざとなると全く言葉が出なくなった。なんて言えばいい?最良の答えなど見つからず、どうシミュレーションしてみてもひかるに罵倒されて終わる・・・そんな結果ばかりが僕の頭に浮かんだ。
ひかるに触れることすらしていない。本当は抱きしめたくて、キスしたくてたまらないのに僕にはもうその権利がない。「約束」が破られた今、ひかるに何も伝えないままキスなどできるわけがなかった。ひかるの近くにいればいるほど自分の欲求を止めることが難しくなるから、なるべく彼女から距離を置かなければならなかったのも随分堪えていた。
僕は自分のことで精一杯で、ひかるの不審そうな眼差しにも気づいていなかった。僕がひかるの事をよく知っているように、彼女も僕の事をよく知っている。僕が隠し事をできない性格だということを、彼女に見抜かれていると気づいても良さそうなものだったのに。

今日はバイトがある。もしかしたら高野さんもいて、ひかるに何か吹き込むつもりなら今日かもしれない。彼女よりも前にひかるに伝えなければならないと思ったのにも関らず、今日は何かとタイミングが悪かった。講義は1限からずっとつまっていたし、車の運転中に話すわけにもいかない。バイトが始まる前には電話が入って足止めを喰らった。
問題を先送りにしていたつけが回ったのだ、と思った。ひかるとの関係が壊れるのが怖くて、一日でもこのままの時間を長引かせたかった。伝える勇気がなくてズルズルと今日まで引っ張ってしまった自分に舌打ちしたくなった。――本当に情けない。
ひかるは僕が電話に出ることになったので、すでにスタッフルームに向っている。僕は友達から用件だけ聞きだすとさっさと切った。もうひかるは高野さんに何か言われただろうか?ひかるの僕に対する反応を想像しながら僕は急いだ。
スタッフルームを開けて視界に入ったのは、案の定ひかると高野さんだった。ただひかるは僕に背を向けているため表情は読めない。高野さんはすぐ僕に気づいたようで、笑みをむけた。


「あ、二ノ宮さん。おはようございます」
「・・・・・・おはよう」


僕は苦々しい思いを抱えながら高野さんに挨拶をした。愛想よくなど到底できず、感情のまま顔に表してしまった僕は、高野さんは楽しそうに眺めているだけだ。僕はさっと視線をひかるのほうにやった。彼女は全く反応しない。もしかしてすでにあのときの事を高野さんに聞いて、僕を罵ろうとしているのかもしれない・・・。僕はごくんとつばを飲み込んで、恐る恐るひかるに近づいた。

「ひか・・・」
「・・・もう行かないと。遅れるわよ」
「え・・・。あ、うん・・・」

身構えていただけに、ひかるの反応は拍子抜けするものだった。ひかるはそのままスタッフルームを出て店に向っていった。この場に僕と高野さんが取り残された。

「二ノ宮さん、神崎さんにこの前のことちゃんと言いました?」
「いや、まだ・・・」
「そうですか。どうなるか楽しみですねぇ」

高野さんはからからと笑うとひかるに続いて出て行った。バイトが終わってからが僕とひかるの関係が変わってしまうときだ。そう思って、僕も部屋を後にした。



***

バイトが終わる間近になるとタイミング悪く忙しくなったため、ひかるが少し延長することになった。僕と高野さんの二人は先に上がることになり、スタッフルームで僕はひかるを待つことにした。彼女と二人きりになるとぴりぴりとした雰囲気にならざるを得なかった。高野さんは僕の様子を気に留めることなく話しかけてきた。

「警戒してるんですか?」
「そりゃあ、少しはね」
「そんなに神崎さんに誤解されるのが怖いんですね。なんか私にはよくわかりません、お二人の関係が」
「僕とひかるの問題だから。君には関係ないよ」
「わあ、ひどい」

高野さんがわざとらしく傷ついた素振りを見せる。僕が椅子に座って携帯を取り出し、メールチェックをしている間にもとりとめもない話を彼女は続けていた。僕とひかるの話から離れたごくごく普通の話を、僕の薄い反応を気にすることなく喋り続けている。僕はひかるを待つべき理由があるけれど、彼女は帰るでもなくこの場にとどまっている。どういうつもりだろう、といぶかしみながらも時間が過ぎるのを待った。
10分位経った後、突然高野さんのおしゃべりがぴたりと止んで、静かになった。彼女は微笑みながらぼくを見る。

「二ノ宮さん、私嘘をつきました。神崎さんは知ってますよ、あのキスのこと」
「なっ・・・」
「しかも、それ以上のことをしたと思ってますよ」

彼女の言葉は冷静さを失わせるには十分すぎるほどだった。僕は思わず椅子から立ち上がって、騒々しい音をたてた。ひかるは僕の口からではなく、高野さんから事実を告げられた・・・最悪のパターンだ。グッと怒りが湧き上がってきたものの、一番腹立たしいのは目の前にいる彼女より、自分自身だった。
高野さんは立ち上がって自己嫌悪している僕へと、急に距離を詰めてきた。距離の近さを遅い反応ながら理解すると、彼女からすぐにはなれた。

「何……っ」
「これくらいで何慌ててるんですか。一度した仲なのに」
「……勘違いも甚だしいね。あんなもの、何の意味もないってわからない?僕は、」


と、怒鳴りかけたところで不意にドアの方を見遣った。そこにいる人物を見て――僕はその先の言葉を紡げなくなった。ひかるがいる。今までの会話全てを聞かれてしまった?高野さんがひかるにあの出来事をすでに話したといったことから、ひかるは高野さんの話が事実だと確信してしまったのではないか――。
どうすれば・・・どうすればいい?答えなど見つかるはずもなく、ただただ混乱するばかりだった。あまりの衝撃に呆然とする僕を、ひかるの冷ややかな瞳が貫いた。彼女の漆黒の瞳には、紛れもない軽蔑の色が浮かんでいた。

「…これが、あんたの答えってわけね…太壱。最近よそよそしかったのも、あたしに突然手をだそうとしなかったのも、こういうことなの。納得したわ…当然よね、バカみたいに清廉でいつづけるなんて無理な話だったのよ。あんたはあたしの知らない間に女を抱きながら、あたしに好きだと言って…あたしを抱こうとした。ただあんたの興味と欲求を満たすためだけに」
「待って・・・ひかる、ちが・・・っ」
「何が違うのよ!あんたはあたしの事始めから好きなわけじゃないのに!あんたは・・・あたしが約束を守ったら抱かせるって言ったから、今までそんなフリをしてたんでしょう・・・!」
「だから・・・ちがうんだよ!僕がひかるを好きな気持ちは変わらない!僕が君を抱きたいのは、君が好きだから・・・っ」
「もうそんな都合のいい言葉信じられるわけないじゃない!あんたはキスした。もしくはそれ以上のこともしてた。それなのにあたしに黙ってたってことは、約束を破りながらあたしを手に入れようとしてたってことだわ!それを・・・そうしようとしてた太壱を・・・どうやって信じればいいの?」

今のひかるは、五年前の傷ついた彼女と全く同じだった。失望や不安、怒りに揺らぐ瞳。ただ昔と違う点は、彼女が軽蔑し罵倒する対象が僕自身になっていることだ。ひかるの僕への信頼は地に落ちた。彼女は僕の「好き」だという気持ちすら嘘だと思ってしまった。けれども彼女を責めることができるだろうか?彼女に嘘だと思われたのは当然の報い――僕が真実を告げようとしなかったからだ。
真実を告げたとき今の関係が壊れるのが怖くて、これから先彼女の側にいられなくなるのが怖くて、彼女に嫌われるのが怖くて・・・。
ひかるの言葉は実に的を射ている。彼女の言う通りのことを、僕は一瞬でも考えたのだ。そして、今までの僕の行動が信頼してもらうには不十分だということは、自分でもわかりきっていた。

「・・・それは・・・」
「ほら、反論なんてできないでしょう?あんたが過去に何をして、あたしをどう思ってるかなんて知らないけど、どちらにせよ今のキスで約束は無効なのは変わらないわ!」
「・・・ひかる・・・お願いだ、せめて僕の気持ちだけは疑わないで・・・!こんな状況で何を言うんだって思われるかもしれないけど、僕は――」
「触らないで!」

ひかるの強い拒絶に僕は歩みを止めた。その声は悲痛で、いつもの冷静な彼女の影はどこにもなく、傷つきやすく脆い面があらわになっていた。そして、彼女は最大でもっとも有効なとどめを僕に刺した。

「・・・あんたも結局、他の男たちと同じだっただけよ・・・!あたしよりもこの体が好きな・・・卑しい男たちと。けど勘違いしないで、約束が破られたからってあたしは構わないのよ。あたしはこれでせいせいしたの!これからはあんたにキスされなくても済むし、抱かれることもないんだからね!」

ひかるの言葉を聞いたとたん、視界が真っ暗になった。一瞬周りが何も見えなくなって、次の瞬間には世界が様変わりしてしまったかのように。さっき耳に届いた言葉を理解したくない、信じたくない。僕は彼女の顔を見ていられなくて、俯きながら声を絞り出した。その声は随分と小さく、独り言のような響きを持っていた。

「・・・ひかるは・・・僕にキスされるのも嫌だった?触れられることも・・・耐えられなかった・・・?」
「そうよ・・・当たり前でしょ。いやだった。だからうれしいの。これであんたから解放されるって思うとね」
「・・・そっか・・・。・・・そうだったのか・・・。ふ、ふ、くく・・・っ」
「・・・・・・太壱・・・・・・?」


――ああ、僕は本当に大馬鹿者だ。ひかるにこうして突きつけられて、初めて彼女の本心を理解するとは。
僕は傲慢にも彼女は嫌がってなどいないと思っていた。僕に対してはだけは嫌悪感を抱いていないと思っていた。僕は他の男たちに優越感を抱きたくて、彼女は拒否していないと考えた方が都合がいいから――そう思い込んでいただけじゃないのか・・・?
いつしか自然にキスをできることに慢心してひかるの気持ちを考えなくなった。このキスは当然の権利だと思うようになった――身勝手で浅ましく、傲慢な考え。思わず自分自身を嘲る笑い声が漏れた。これが、自嘲せずにいられるだろうか?
よく考えてみればわかることだった。誰が好きでもない男にキスをされて喜ぶだろう?触れられることが嬉しいだろう?ひかるは好きで自らを差し出したわけじゃない、「約束」に伴う義務のような責任感だけがある。あの時傷つき冷静さを失った彼女の言葉を利用して、承諾したのは僕だったから。本当ならわざわざ彼女に身を差し出させる必要など、なかったのに。
滑稽だ、バカらしい。本当に――。
もう彼女を解放しなければならない。
僕は笑うのをやめ、顔を上げてひかるを見つめた。痛みを隠して、やわらかく微笑む。

「ごめんね、ひかる。・・・ごめん・・・。僕は最低だね・・・」

最低だ。彼女を守りたくて誰よりも好きなくせに、本当は自分のことしか考えていない。そして――彼女を傷つけるのはいつも僕だ。

「全て・・・終わりにしよう。君に触れることは二度としない。・・・だから安心して」
「・・・そうね」

「終わり」を告げるとひかるはあっさりと頷いた。自分で言っておきながらバカバカしいけれど、彼女の肯定に傷つかずにはいられなかった。もうひかるにキスすることも、触れることすらできない。彼女がそれを望んでいないのにできるわけがない。ひかるはぼくを見ることもなく、さっと踵を返した。

「・・・帰るわ」
「じゃあ、送るよ」
「ついてこないで。今日はあんたと一緒に帰りたくない気分なの」
「・・・・・・そうだね」
「じゃあね」

ひかるが部屋から出てドアを閉めた。僕とひかるの関係が閉ざされたのを示すかのように、大きくその音が響いた。








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