Cool Sweet Honey!

太壱編―10―

小さな一人暮らし用のアパートだから、一歩踏み入れれば部屋の中が全て見渡せる。さすが女の子の一人暮らしというか、かわいらしい色や物でまとめられていた。僕はできるだけ部屋の中まで踏み出すことなく、あくまで一線を引いた状態を崩さなかった。

「これ、薬とか食べ物もいろいろ入ってるから・・・。やっぱり体調悪いなら薬のんで早く寝たほうがいいよ。ごめんね、僕はこれ以上何もできない」

もう僕の役目は十分果たした。これ以上とどまることはひかるにも高野さんにも誤解を与えることだと思って、多少思いやりのない行動かもしれないが、踵を返そうとした。

「二ノ宮さんって紳士過ぎますよ。もっと下心出してくれなくちゃつまらない」

そのまま帰ろうとしていた僕の背中に、そんな呟きが投げかけられた。僕がいぶかしんで後ろを振り返ると、高野さんは自分の発言を気にしていないような態度でニコニコ笑っている。・・・その笑顔をみて厄介なことになりそうだ、と思ってため息をついた。

「・・・どういう意味?」
「だって、こんなおいしいシチュエーションだったらもっとどぎまぎしてもいいはずなのに・・・二ノ宮さん、全然気にしてないようなんですもん」
「・・・体調が悪いんじゃなかったの?」
「風邪は確かにひいてますけど、それだけ。別に寝込むほど悪くはありません。私、二ノ宮さんと二人きりになれる機会をうかがってたんで利用させてもらいました」

なるほどね。やたらと絡んでくるなあ、と思ってはいたけれど・・・面倒くさいことになってきた。再びため息をつきたくなっていると、高野さんが後ろから僕に抱き着いてきて、ぎょっとした。すぐさま腹の位置で組まれている彼女の腕を引き剥がして向き直る。

「なにするの?」
「なにって・・・やだぁ、そんな拒絶されたの初めて。女の子が抱きついてきたら期待して、男の人は普通・・・抱きしめ返してキスするところですよ」
「そういうこと期待してるなら、僕は君には絶対にしないよ。したいとも思わない」
「ふ〜ん・・・神崎さん以外にはしない、ってことですか?」

ここでひかるの名前が出てくることは不思議でもなんでもなかった。僕がひかるへの気持ちを隠そうとしたこともなかったし、どこかでひかるにキスしているところを見られたのかもしれない。別に僕の気持ちが周りに知れ渡っていてもたいした事ではないので、平然と返した。

「そうだよ」
「でも付き合ってないんですよね、神崎さんが否定してましたよ?それなのに神崎さんに操たててるんですか?付き合ってないんだからいいじゃないですか、信じられない!」
「・・・君には関係ないよ。僕とひかるの問題だから」

こうなってはやさしくするのは余計なことだと思って、突き放すように言った。帰るなら今が一番だ。もうこれ以上話すことは何もないし、心配する必要もなくなったのだから。その様子を察したのか、高野さんがわざとらしくため息をつき呆れたように言う。

「二ノ宮さんが神崎さんに執着する理由が全くわかりませんね。確かにきれいでスタイルいいと思うけど、それだけじゃないですか。つんとした態度で高慢って言うか、二ノ宮さんをいいように扱ってますよ。女性としてかわいげもないし、ホントやなかんじ――」
「ひかるをそれ以上侮辱したら、僕は絶対に許さないよ」

僕自身が悪く言われるならともかく、ひかるの事を侮辱されるのが一番苛立たしかった。彼女は誤解されやすいけれど高慢でもないし、かわいげがないわけでもない。素直になることが人よりも苦手な、普通のかわいい女の子だ。
男相手だったら中学三年のときのように、胸倉を掴んで押さえつけていただろう。今回は女性相手だけに乱暴なことをするわけにもいかず、壁際に追い詰めて睨みつけるだけにとどまった。高野さんは僕の怒りに触れて怯えたのかと思っていたら、全くの逆でくすくすと笑っていた。彼女の口角が面白そうにあがっていて悪巧みをしているように思えたけれど、なにをするつもりなのか掴めなかった。

「なにを――」

と、口を開きかけたときに唇が押し当てられた。彼女は背伸びをしながら僕を一気に引き寄せてキスをしたのだ。上手く回らない頭でその事実を把握すると、彼女を引き離した。その時間は一瞬ながら、不快感を味わった僕は思わず服で口元をぬぐった。消えない感触。それは罪の意識と同じようにまざまざと感じられた。

「さて、どうします?神崎さん以外に何もしないって言ってたようですけど、破っちゃいましたね。神崎さんはどう思うんでしょう。付き合ってないなら気にしないかもしれませんけど、わかりませんよねぇ。嫌われるかも」
「君は・・・なにがしたいんだ?」
「さあ、ただムカついたので。このキスをどう収めるか・・・楽しみにしてますよ」

彼女は朗らかに笑うと、もう僕のことはどうでもいいようだった。僕は部屋から出て、車に乗り込むとバイト先へと走らせた。怒りなのか情けなさなのか不安なのか・・・僕の心の中はぐちゃぐちゃだった。
――あたし以外にキスをすることも抱くこともしないって約束して――
ひかるとの「約束」が――いとも簡単に破られてしまった。僕の意思などでは決してない。けれどもそんな事は関係なく、この約束に大切なのはそれが「事実」であることなのだ。ひかるに事情を説明しても信じてくれないだろうし、そんな「例外」が通るわけがない・・・。


もしひかるにさっきの出来事を知られれば、彼女は即座に「約束」の無効を言い渡すに違いない。それだけで済むならまだしも、他の男たちと同じだと見なして僕を軽蔑するはずだ。そしてひかるは決して認めないだろうけど、一人で傷つくことになる・・・。僕の気持ちを疑いながらも信じようとしてくれているからこそ、裏切られたと感じるはずだった。今度こそ僕を見限って側にいることを拒むだろう。
――言えない。ひかるにキスの事を言えるわけがない――
それは「約束」の終わりだけでなく、僕とひかるの関係の終わりでもあった。彼女を手に入れることはできなくなり、僕を好きになってくれる可能性も消滅する。ならばどうする?どうしたらいい・・・?ひかるに嫌われたくない、そして彼女を手に入れるためには・・・その方法はただ一つ。
――言わなければバレない。僕の心のうちにとどめておけば「約束」は失われない。
バイト先に駐車した車内で、僕は自分の心に潜む浅ましさに苛立ってハンドルに手を打ち付けた。

「・・・何を、考えてるんだよ・・・。そんなことしていいわけがないだろ・・・?」

ひかるに嘘をついてまで、「約束」を破ってまで彼女を手に入れるだなんて・・・。この「約束」の脆さを、ひかるはそもそも疑っている。僕が本当に彼女以外にキスをしていないのか、抱いていないのか証明する手段はなく僕の行動次第だった。だからもしキスの事を黙ったままひかるを抱いたとして、そのあとで事実が判明すれば彼女は僕の全てを疑い、一切信じてくれなくなる。もっとも最悪なパターンだ。
それでも僕はこの方法の魅力を無視できなかった。その後に最悪な展開になるにしても、ひかるを抱くことができる――。そこまで卑劣な手を使ってまでひかるを手に入れたいのかと、自分を罵りたくなりながらも否定できなかった。そうだよ、僕はそれくらいひかるがほしい。
けれどその手段をとる勇気も僕にはなかった。ひかるに僕の口から真実を告げなければ・・・。高野さんはこのまま黙っているわけはなく、ひかるに何か吹き込むだろう。事実を歪曲して伝えられる前に彼女にこのことを告げよう。そして、許してもらえるように何度でも謝ろう。
僕は車から降りてぼうっと夜空を見上げた。冷たい空気が頬を刺すけれど、ショック状態の僕には気にならなかった。むしろ自分自身への罰としてその冷たさがちょうど良かった。

「太壱」
「……!ひかる……」

どのくらいそうしていただろう、気がつくとひかるが側にやってきて僕の名前を呼んだ。外の冷たい空気にさらされ続けたおかげで手はかなり冷たくなっている。それすら感じないほど僕はぼうっとしていたようだ。
パッと顔を上げるとひかるの姿が目に映った。――僕の大好きなひかる。これからひかるに伝えなければならないことは彼女を失いかねないことなのだ・・・。その事実を確認して僕は大きく揺らいだ。なるべく平常心を保って、冷静にならなければならない。さもなければひかるにあっさりと何事かと見破られてしまうだろう。僕はなんとか微笑んだ。

「お疲れ様、ひかる。帰ろうか」


ひかるを助手席に乗るよう促して僕も車内に乗り込んだ。つい動作が緩慢になってほうけていると、ひかるの視線を強く感じた。

「太壱、あんたどうしたの?何かあったわけ?」
「…ううん、なにもないよ…。大丈夫」
「そう……。高野さんは大丈夫そうだった?」

ひかるが何気なく口にして、当然の問いかけに僕は思わず緊張してしまった。どうしよう、伝えるなら今しかない。けれど、僕は――

「……うん……きっと大丈夫だよ」


そういって誤魔化した。まだだめだ。僕自身混乱していてひかるにうまく説明できる自信がない。僕はこれから彼女にあの忌まわしい出来事を伝えなければならない。黙っていれば事態はもっと悪くなる。けれど、なんて言えばいい?どうしたら僕の気持ちを疑われずに伝えられるだろう・・・。
この話をするのは自ら死刑宣告をするようなものだ。僕にはまだその勇気がなかった。

車内は無言だった。ひかるも僕の不自然さに気づいたのか、何も追求しようとはしなかった。そんな微妙な空気のまま、ひかるのマンションに着いた。

「…じゃあ、ありがとう。また明日…」
「……ひかる」


僕は無意識のうちにひかるを呼び止めて、彼女の腕を掴んでいた。これから起こるだろう事態になるのが怖い。ひかるが僕を軽蔑して、離れてしまうのが怖い。お願いだ、側にいてほしい。
ひかるに対する欲求が抑えきれなくなって、いつものようにキスをしたくなった。ひかるに拒絶されてからそんな雰囲気になったことはなかったし、無理にしようとは思わなかった。今はとにかくひかるを抱きしめて、キスをして、その存在を感じたい――。唇が触れ合う距離にまで近づいたとき、心のうちで警鐘がなった。
――「約束」を守れなかったお前に、彼女にキスをする権利があると思うのか?――

「…っ。――ごめん」


今の僕には彼女に触れる権利はない――。「約束」も守れず彼女だけは手に入れたいだなんて、卑怯だ。ひかるを僕から解放して距離をとった。これ以上側にいたら、僕は何をしてしまうかわからない。

「…おやすみ、ひかる」
「……おやすみ」

挨拶を交わして、家路へと急いだ。本当はひかるを強く抱きしめたいし、キスもしたい。ひかる以外の子とのキスなんて知りたくもなかった。だからその事実を洗い流すかのように、ひかるとのキスで忘れさせてほしかった。だけどそれは僕の我が儘だ。
僕は彼女を傷つけるだろう。僕のことを信じようとしてしきれない――僕の大切な女の子を。








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