Cool Sweet Honey!

9話

仕事が片付いて、斎藤さんや店長たちに挨拶したあと駐車場に出た。捜す間もなく太壱の姿が発見できた。
あたしの終わる時間を見計らったのか、この寒い中、車に寄り掛かるようにして外で待っている。
けれど何かおかしい。いつもならすぐにあたしに気がついて、笑顔で声をかけてきてもいいはずなのに。
今の太壱は遠くを見つめるように、ぼーっとしている。考え事をしていて心ここにあらず、といった感じだ。まったく太壱らしくなかった。

「太壱」
「……!ひかる……」

あたしが声をかけるとやっと気がついたようで、ぱっと顔をあげる。でもその瞳は大きく揺らいでいた。…一体なに?
太壱はそれでも次の瞬間には微笑んで、その雰囲気を消し去った。

「お疲れ様、ひかる。帰ろうか」

助手席に乗るように促されて、あたしは暖められた車内に乗り込む。太壱は車内に乗り込んだはいいものの、今だほうけている。
その様子がなぜだかすごく気になった。

「太壱、あんたどうしたの?何かあったわけ?」
「…ううん、なにもないよ…。大丈夫」
「そう……。高野さんは大丈夫そうだった?」

あたしが何気なく口にした問いに太壱がわずかに緊張したような気がした。何を言おうか迷っているかのように、口ごもった様子で。

「……うん……きっと大丈夫だよ」

太壱がしばらくして、ただそれだけを言った。車を発進させて、あたしを見ようとしない。
返答に困るようなことを聞いたわけじゃない。それなのに、なぜ言いづらそうにしているの?
何を……隠しているの?
――太壱のやつ、送り狼にならないといいけどな――
斎藤さんの言葉が脳裏に過ぎった。体が一気に冷え込んだかのように感じられて、心には冷え冷えとした感情が流れ込んでくる。
まさか。でも……
今の、あたしと視線を合わせない…気まずそうな太壱の様子からして、あながちあたしの想像も間違っていない気がする。
一人暮らしで、弱ってる女の子に頼られる。こんなに整えられた状況でなにもしないでいられるだろうか?
しかも、高野さんの太壱への想いもはっきり見てとれるのだから。
もし本当に…あたしの想像があたっていたとしたら…一体どうなるんだろう。そして、あたしはどうしたいの?
どうしようもない。少なくとも憶測だけでどうしたいか悩むなんて、バカバカしい。
車内は無言だった。あたしは普段べらべらとしゃべる方じゃないから、太壱が話さないと静かになるのは当然だった。
そんな微妙な空気のまま、あたしのマンションに着く。

「…じゃあ、ありがとう。また明日…」
「……ひかる」

車から出ようとしたあたしは、太壱に腕を掴まれた。驚いて振り向くと、苦悩の色が見え隠れする瞳とかちあう。
そして、太壱の顔があたしに近づいてきた。キスする距離。あたしが太壱のキスを拒んで気まずい空気になってから、太壱はあたしのことを慮ってか、そんなそぶりを見せなかったから、随分久しぶりだと思う。
あたしも今は拒絶しなかった。拒絶するとか、否定的なことは頭に浮かんでこなかった。
なすがまま、吐息が近くまで感じられて触れ合うまであと少し――

「…っ。――ごめん」

太壱の謝罪する声。その声を聞いてあたしが目を開けると、太壱はすでにあたしから離れていた。彼はそっぽを向いて、あたしに顔を合わせない。
……ごめん、って何よ?謝る理由でもあるわけ?
問い詰めてやりたいことはたくさんあった。
太壱がキスをしようとして、自ら途中でやめたことは初めて。あたしが拒絶したわけでもなく、場所と時間が悪いわけでもなく、自分の衝動的な行動を自制するかのようにその先を留まったのは…初めてだった。
キスくらいいつでも勝手にするくせに。
これはやっぱり…高野さんと何かあった証拠なんじゃない…?
あたしの胸がざわついた。また胸騒ぎ。嫌な予感。

「…おやすみ、ひかる」
「……おやすみ」

挨拶を交わして、太壱の車が走り去っていくのをあたしはしばらく眺めていた。



***



それから数日間、大学に行って何事もなく時間が過ぎていった――少なくとも表面的には。
傍目には何も変っていないように感じられた。けれども確実に違う。あたしが意識して避けていたとも違って、太壱がなんだかよそよそしかった。
太壱は変らずにあたしに尽くすように接してくる。でもあたしに触れることもなくなったし、キスをしようという素振りも見せない。そしてあたしに対して欲望をぶつけてくることさえしなくなった。
これでおかしいと思わずにいられるだろうか?
あの日――太壱が高野さんを送り届けた日から何かが狂いだしている。太壱との関係もあたしの感情も。
太壱があたしに何もしてこなくなったのは、あたしが拒んだからじゃないか、って・・・。だからもうあたしのことなんかどうでもよくなって、他の女の子に惹かれたんじゃないか、って・・・。
それを嫌だと考えているあたし。信じたくないと思っているあたし。
そんなことを考えているあたしに思い至って愕然とした。なんでよ、おかしいじゃない!
太壱があたし以外の子を好きになったってあたしには関係ないし、約束が無効になったらあたしはわざわざ身を差し出さなくても済む。
悪いことなんて何一つないのよ、とあたしは自分に言い聞かせた。



「・・・ひかる?どうしたの?」
「・・・え」
「講義終わったよ。教室移動しよう」
「・・・そうね」

考え込んでいたあたしは太壱によって現実に引き戻された。荷物を片付けて、次の講義の教室へ向う。太壱はあたしの隣で些細な日常のことについて話していた。あたしはなんとなく聞いて相槌を打って、頭に会話が入ってこない。
太壱もなんとなくおかしいけれど、あたしも人のことは言えない。完璧に自分の調子が崩れてしまっていた。
はあ、とため息をつく。そのとき――あたしは階段を踏み外した。体のバランスが崩れて・・・落ちる!その感覚は分かった。だけど対処しようにももう遅くて――

「ひかるっ!」

浮遊感を味わうこともなく、あたしは太壱に抱き寄せられていた。太壱は一方の手で手すりを、一方であたしの腰のあたりを引き寄せて、支えていた。
落ちそうになった恐怖に心臓が大きく脈打つ。そして、耳元では太壱の大きな安堵のため息を感じて、違う意味でまた心臓が大きく跳ねた。
久しぶりに感じる太壱の体温。密着した体。すぐ近くに聞こえる呼吸。

「・・・よかった・・・大丈夫?ひかる・・・」
「・・・大丈夫・・・ありがと・・・」

あたしが振り向くと、太壱の顔がすぐ近くにあった。太壱は切なげにあたしを見つめている。あたしを抱く腕の力も強まっていて、彼が衝動を我慢しているかのように感じられた。
綺麗に整った、見慣れたはずの顔立ちと・・・唇。やたらと意識してしまってあたしは顔を伏せた。
太壱には知られたくない。あたしが今、考えていることを。
ゆるゆると、ゆっくり太壱の腕があたしからはずされていく。太壱がまず立って、あたしも彼に立たされた。

「・・・行こうか」

怪我がないかだけを確認した後、太壱はさっさと背中を見せて歩き始めた。あたしは彼の後姿を見ながら呆然とする。
あたしは太壱の体が触れ合ったとき、喜びを感じていた。触れて欲しい、キスして欲しい――そんな衝動が頭をよぎった。
・・・どうにかなってしまったんじゃない?こんなこと考えていいはずじゃないはずでしょ?これじゃあ本当に、キスを待ち望むいやらしい女みたい!
今まで毎日のように太壱にキスされてきたからって、何洗脳されてるの?これが普通。いままでがおかしかったんだから。
これでいいの。今の状態があたしにとって望ましいはず。べたべたと太壱のセクハラに悩まされなくてもいいんだし・・・。
きゅ、と唇を噛み締める。こんな感情に振り回される自分が嫌。いつものあたしに戻って、冷静にならなくちゃ。
・・・それがどれだけ難しいことか、あたし自身よく分かっていた。










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